その他コラム-つぅが好まれない訳-

映画なんかを見ていて〜2ってつまらないのが多いなと感じたので、まとめてみようかと。


事の始まりは「作者の死」を書いたロラン・バルトから始まったと考えると分かりやすいでしょうかね。フランスの思想家で記号学者、この人が「作者の死」を提唱したわけです。簡単にまとめると、物語に対する絶対的な力を持っている作者を殺して、物語を誰のものでもないように切り取ろうという事です。作者が自分の物語に対して「私はこういう意図で書いた」なんて言うと、消費者は反論しようが無い。物語の権力者たる作者がそう語れば、物語は誰がどう言おうとそうなるのは自明の理です。で、それはいかんからフラットな対等な関係にしようということで、作者と作品を切り離すのが「作者の死」です。結果、消費者が好き勝手に解釈して楽しめる様になりました。谷崎なんかも自身の文章読本で、文章はなるべく簡潔に、読者に想像させるように書けと論じています。まあそこら辺は置いておきます。


で〜2もその路線で、忌諱され論評家とかに評価されない理由なのかなと思ったり。作者を殺す現代では〜2は作品の規定になってしまうというか、作品の奥行きを狭めてしまう。作者が語れば語るほど、消費者の評価と乖離してしまうんですよね。それが〜2であり、エロゲではファンディスクであると。

消費者が自分の好きな世界にもう一度入り込みたい反面、作者と自分との乖離に気が付きたくないというジレンマ。私もレビューサイトなんてやっている身なので良く分かるのですが、作者に作品を語られると、レビューと言うごっこ遊びが出来ない。正解と違う回答を堂々と見せるのはバカな子ですからね。

まあ言ってみれば〜2なりファンディスクは作者が読者を殺す行為なわけです。作品の解釈の幅を狭める事を作者がやる。斜に構えれば、殺されたものからの反撃なんても取れるんですが、まあそんな事は無く、〜2は自己を表現したい作家性と既得層を取り込みたい商業性の折り合いの難しいところな訳で、今のところ商業の方に転がっているわけですね。しょうがないと言えばしょうがない。その作品を気に入った人はそのの世界をもう一度見たいという欲求はある訳ですし、好きな作品だったら買ってしまう。人間の性ですね。受け入れられないというより、待望しつつ忌諱されるといった感じでしょうか。そこら辺のジレンマは多かれ少なかれ作者、読者が持っていると。もっともエロゲなんかは(他のも言えますけど)〜2はノリノリな感じがしなくも無いですが、気にしないでおきましょう。


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